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2020.06.01

エンパシーが足りない。

便利なことに、自分に興味のある情報だけが入ってくるようになってきている昨今。

なんだか自分の考える力が落ちているような気がしてならない。

 

オンラインでのコミュニケーションは、

とても気安くて気楽で、便利。

共感を得ているかどうかも一目で分かる「いいね」。

いつの間にか自分でも知らないうちに、

自分にとって居心地の良いコミュニティーの中に意識を置いていることになる。

 

気の合う者同士が同じコミュニティーを作るのは必然であるし

とても健康的なことだとも思う。

しかし、気の合わない人間のことを知らなくて良いとは、あまり思わない。

知らないことが増えるのは恐怖だ。

また気の合わない人間を批判する傾向があるのも怖さを感じる。

 

 

最近レイシズムに関して書かれている本を読み、

エンパシーという言葉が頭に残った。

日本ではあまり馴染みのない言葉かと思うが、

日本語に訳せば「共感」である。

共感という意味を持つ英語に、シンパシーという言葉があるが、

シンパシーとエンパシーの違いは私なりに以下の様に考える。

 

シンパシーは、頭で考えなくても自然に湧き上がる共感。

エンパシーは、頭で考えて相手を理解したことによる共感。

 

「感じる」と「考える」の違いとも言える。

 

日本では「差別」というと男女差別が一番メジャーかと思うが、

世の中には人種・所得・ジェンダー・宗教 ・思想などなど、

考え方が違えば差別が生まれ、差別の種類は多岐にわたる。

 

SNSで、他者への異様までの批判が問題となっているが、

オンライン上では、自分にとって都合の良い気の合う人間(情報)ばかりが集まってくる。

自分を承認してもらえるコミュニティーに無意識に居ることで、

バーチャルな結束感と暴力的な正義感を生んでいるように感じる。

そして”情報”を武器にして人を殺すこともできる。

 

日本だけの話では無いと思うが、

エンパシーが足りない。

 

コミュニティーに属するのは安心するし幸せなことだが、

その一方で、考え方の違う他者を理解しようとすることを飛び越しての

批判は、暴力にしか見えない。

 

自分とは異なる考えがなぜあるのか、

その背景を理解すれば、共感は生まれると思う。

共感した上で、協力するのか、何かを譲るのか、別の道をいくのか、考えれば良い。

 

 

新型コロナウイルスのパンデミックにより、世界は更なるオンライン化に進もうとしている。

便利ではあるが、オンラインという匿名性のある場所でのコミュニティーは信頼にかける。

人は実際に顔と顔を合わさないと、無責任になる。

そして人はなかなか自制できない。

 

この2ヶ月、家に居て私が思ったことは、

対面でできることは、今後も絶対的に対面で行なっていきたい。

手に触れられる場所にいる人間を、人は容易に傷つけたりしない。

むしろ、まずは「共感」する道を選ぶものだ。

それが危険を回避する一番の方法だから。

 

そして対面で得られた信頼からなる縁はたやすく切れることは無い。

信頼こそが財産。資本主義社会の中に生きていても、私はそう思う。

 

 

時代に逆行しているのかもしれないが、

私はオフラインこそ大切に未来を生きたいと思った。

Varanasi

 

15年前に製作されたアメリカ映画『クラッシュ』は

コミュニティーに属した上での人との関係性と、

別のコミュニティーおよび個人となった時の、人との関係性を描いた映画で、

レイシズムを考える上で非常に印象深い作品である。

自分の持つ正義感を他者に投げつけることが、いかに不毛であるか考えさせられる。

 

photographer SHAR

#エンパシー #オフライン